現在の岡山市街の南端から児島湾まで広がるなだらかな平野は、古くから岡南地域と呼ばれていた。岡山臨港鐵道は、この岡南地域において北は旧国鉄宇野線(現 JR瀬戸大橋線)の大元駅から南は岡山港まで8.1km間で、昭和26年8月1日 貨物及び旅客輸送の営業を開始した。 戦後の地域経済復興の拠点として岡南地区の工業地域化を目指す岡山県、岡山市、岡山商工会議所の強いバックアップと県民の強い熱意を受けて官民共同で開業した。
- 開業日の汽車会社前駅
- 開業日から運行されたディーゼル客車キハ3001
- 昭和30年頃の岡南地域
昭和30年代からの高度成長期、岡南工業地域では、工場の設備拡大・生産増強、新規の工場進出が相次いだ。
岡南工業地域の活況は、そのまま貨物量の大幅な増加につながり、開業当初の第1目的が岡南地区の産業開発であったことから、貨物輸送を中心としてきた岡山臨港鐵道はこの時期、貨物鉄道会社として急成長を遂げた。 一方、旅客人員はバス路線との競合により一時減少していたが、岡南工業地域の発展により岡山市南部の人口増加をもたらし、回復を見せた。
- 貨物輸送の最盛期、長い貨物を牽引する
ディーゼル機関車DD1351
- 朝の通勤・通学ラッシュ(岡南福田駅)
- 昭和42年頃の岡南地域
昭和48年から始まった石油ショックは、昭和45年をピークに停滞していた貨物輸送部門に大きな打撃を与えた。また、旅客人員も昭和39年から再び減少に転じ、一時的な回復はあったものの、減少傾向に歯止めがかからなかった。さらに国鉄(現 JR)のストや合理化による全国的な鉄道貨物の機能麻痺、道路網の整備によるトラック輸送の進展、コストの安い海上輸送への転換が岡山臨港鐵道を危機的状況に追い込んだ。この状況を打開すべく、あらゆる経営努力を行ってきたが、鉄道存続は不可能と判断せざるを得ず、昭和59年12月29日をもって岡山臨港鐵道の幕を下ろした。
- 最終貨物列車(昭和59年12月24日)
- さよなら列車
- 大元駅を出発する午後7時21分発の最終便
岡南工業地域の動脈、住民の足として33年間走り続けた岡山臨港鐵道の線路跡地の一部は、緑の遊歩道として岡山市により整備され、市民の憩いの場「臨港グリーンアベニュー」として親しまれている。また、工業地域・臨港地区にあった跡地は、株式会社岡山臨港(旧 岡山臨港鐵道株式会社)の倉庫用地として活用され一大倉庫群を形成、総合物流企業として再出発した岡山臨港グループの中核施設となっている。
- 臨港グリーンアベニュー
- 鉄道跡地を利用した倉庫群
- 発展を続ける岡南工業地域
- 本社構内に保存され往時の姿を伝える
ディーゼル機関車DB102
- ミニ博物館、図書室として園児たちの教育に利用されている客車キハ7003(ちどり保育園)